私と危険地取材 2度の死の恐怖で学んだ自衛手段  ジャーナリスト 桜木武史

ダマスカス郊外の反体制派が支配する町、ドゥーマでの反政府デモ=ドゥーマで2012年4月中頃 撮影桜木武史 【ダマスカス郊外の町、ドゥーマは2012年4月、反体制派(自由シリア軍)が支配権を確立していた。朝、昼、晩を問わず、街中では堂々と反政府デモが繰り広げられていた。しかし、4月末、政府軍の猛攻撃によりドゥーマから自由シリア軍は撤退した】

フリーのジャーナリストを始めてから15年近くが経過した。フリーは会社に縛られることもなく、上司もいなければ部下もいない。好きな取材テーマを選べるし、まさにその名の通り、自由に行動ができる。ただし、欠点もある。一人で取材をすることが基本なので、人脈作り、インタビュー、写真撮影、売り込み、全てを自分一人で背負うことになる。さらに、取材費は自費であり、取材や売り込みに失敗すれば、大赤字をたたき出すことになる。

そして、最も重要なのが、自衛手段である。特に私が向かう先は危険な場所が多い。危険かどうかを判断するのも、本人に委ねられる。会社の人間であれば、マニュアルがあるだろうし、会社の方針として、行ってはいけない場所が指定される。しかし、フリーにはマニュアルもなければ、行ってはいけない場所の指定も受けない。自己判断に全てが任せられる。

私はこれまで二度、命を落としかけたことがある。一度目は2005年11月、インドのジャンム・カシミール州の州都スリナガルでインド軍とイスラム武装勢力との戦闘に巻き込まれた。戦闘が発生した直後、インド軍はすぐさま周囲に非常線を敷いた。軍関係者以外は一切の立ち入りが禁止された。しかし、戦闘は私が宿泊しているホテルの真向かいで起きた。

ホテルで休息していた私は銃声に気が付き、何も考えることなく外に出た。瞳に映り込んだのは、装甲車のハッチから火を噴く機関銃だった。思わずカメラを構えたとき、銃弾が右下顎に命中した。被弾箇所からは大量の血液が流れ出し、すぐさま病院に搬送され、一命を取り留めた。仮に州都スリナガルではなく、小さな診療所があるだけの片田舎であれば、確実に命を落としていた。目の前で銃撃戦が繰り広げている最中に不用意に外に出た私の過ちだった。

アレッポの前線に向かう反体制派の戦闘員=2012年11月初旬 撮影桜木武史【2012年7月中旬、アレッポで反体制派が一斉に武装蜂起を開始した。一部の地区を自由シリア軍が支配し、政府軍は空爆を開始した。前線に向かう自由シリア軍は笑顔で語った。「アサド政権はすぐにでも崩壊する」。しかし、2016年12月、アレッポ全域はアサド政権の手に渡った】

二度目は2010年6月、インドの西ベンガル州の州都コルカタから約160キロ離れた小さな町ミドナプルで武装組織に拘束されたときのことである。地元のカメラマンから「マオイスト(インドで毛沢東主義を掲げる武装組織)の一人がインド軍に殺害された」と知らされた。彼の案内で現場に向かう途中、運が悪くマオイストを支持する武装した自警団に拘束された。前日、マオイストがインド軍の掃討作戦で殺害され、自警団は我を失い怒りに駆られていた。

私は「外国からのスパイ」と誤認され、首筋にピストルを突き付けられ、田んぼの真ん中まで歩かされた。座らされ、自警団が大声を張り上げた。離れた場所から私を見ていたカメラマンからあとで聞かされた話では、「こいつはインド政府が送り込んだスパイだから、これから処刑する」と叫んだそうである。しかし、周囲に大勢の村人が群がり、処刑は中断された。

これもカメラマンの説明では、「彼はスパイじゃないから殺すな!」と怒鳴っていたという。この村では毎日のように自警団による処刑が行われていたが、実際はスパイでもない村人が数多く殺害されていた。それに不満を募らせた村人が私の命を救ってくれた。これは自警団と遭遇した予期せぬ失態かもしれない。しかし、何が起こるか分からないのが危険地域である。

この二度の経験は私に危険地取材での自衛手段を身をもって教えてくれた。2012年3月から2015年4月までの約3年間、私は計5度に渡り、シリアを訪れた。2012年3月から5月にダマスカス、2012年11月、2013年2月にアレッポ、2014年5月には反体制派組織と1カ月共に過ごし、アレッポの最前線に赴いた。最後に訪れたのは2015年4月、クルド人地域のコバニである。

アレッポの最前線で政府軍と戦火を交える反体制派の戦闘員=2014年5月末 撮影桜木武史 【銃を握る自由シリア軍の兵士の職種は様々である。アサド政権と果敢に戦う彼らも民衆蜂起が起きる以前は多くが一般市民だった。学生、農夫、車や電気の整備士、教師、一部では政府軍から脱走した離反兵も含まれていた】

どの取材も一歩間違えば死に直面していた。スリナガルでは戦闘が発生した際には周囲には非常線が敷かれた。非常線の外にいれば、少なくとも危険からは遠ざけられた。しかし、シリアは非常線など存在しない。反体制派の町全体が非常線の内側であり、市街地には容赦なく砲弾やミサイルが撃ち込まれた。通りを歩けば政府軍のスナイパーが老若男女を問わず撃ち殺した。また偶然にも遭遇した自警団に拘束されたときと異なり、シリアでは銃が氾濫し、外国人は金銭目当て、その他の紛争の道具として扱われ、スパイ容疑ではなくとも、誘拐される事例が多発していた。

それでも私は無事に5度のシリアでの取材を終えた。それは被弾したときのような周囲の安全を一切確認することなく闇雲に行動を起こさなかったことが一つある。またシリアでの内戦が泥沼に陥り、誘拐が多発する中で、私は危険な武装勢力には近づかず、さらに従軍する部隊の司令官からの許可を得て、取材を継続していた。
またはメディアセンターを通じて、信頼できる人間をガイドに伴った。ただ、2015年4月の最後の訪問を終えたとき、これまでいくつもの危険地域を取材してきた直観とシリアを長年見続けた感覚から、もうこれ以上は足を運べないと判断した。過去の経験不足の私であったら、その後もシリアへ入国する可能性を探っていただろう。しかし、2015年4月以降、シリアに入る機会は何度か巡ってきたが、その誘いは全て断っている。

危険地取材では何が起きるか分からない。シリアで言えば、ベテランのジャーナリストやカメラマンも多数命を落としている。それでも命を奪われる危険性を少しでも下げながら取材を行うことはできる。私は15年近く、危険地域で取材をしてきて、2度の死への恐怖を味わうことで、最低限の安全を確保しながら、取材を敢行している。

イスラム国との戦闘とアメリカの空爆により破壊されたクルド人の町、コバニ=2015年4月中旬 撮影桜木武史 【イスラム国の進撃を食い止めた町、コバニはクルド人にとって勝利の象徴として称えられた。しかし、激しい戦闘とイスラム国の自爆テロ、さらにクルド人を支援するアメリカの空爆により町の7割が全半壊した。それでもクルド人はイスラム国から解放されたコバニで土地を取り戻したことに喜びを感じていた。建物は破壊されても、土地を取り戻せば、再建できる。帰還したクルド人の一人は全壊した我が家の前で白い歯を見せた。】

世間は危険な地域に自ら足を運ぶジャーナリストやカメラマンに厳しい目を向ける。まるで「裸で冬山に出掛ける無防備な人間」だと思われがちである。しかし、危険地を取材するジャーナリストの多くは、様々な経験を経て、安全を確保しながら、取材を行っている。「防寒具を装備して冬山に挑む人間」なのである。それでも、予期しない状況の変化などに巻き込まれて命を落とすこともある。
何かが起きたとき、日本では自己責任だと非難される。確かに危険を承知の上で自らの意思で出掛けているので自己責任には違いない。しかし、裸で冬山に登るような無謀な行動で身を危険にさらしているわけではない。どれだけ安全を確保しても、慎重に行動しても、そこが危険地である限り、何が起こるか分からない。それは自己責任だけでは片づけられない難しさが危険地取材にはついて回るのである。

桜木武史(さくらぎ たけし)
1978年、岐阜県生まれ。ジャーナリスト。東海大学文学部広報メディア学科卒業。卒業後、インドのジャンム・カシミール州を拠点に取材活動を続ける。その他の取材先としてアフガニスタン、パキスタン、シリアなどがある。著書に「戦場ジャーナリストへの道(彩流社)」、「シリア 戦場からの声(アルファベータブックス)」
■HP http://t-sakuragi.com/  ■ツイッター @takeshisakuragi

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