【ジャーナリストはなぜ、なにを、どのように伝えるのか】―イスラエル人ジャーナリスト、アミラ・ハス氏との対話― (第一部)


2017年9月20日/文京区民センター

昨年9月、アミラ・ハス氏(イスラエルの有力紙『ハアレツ』のパレスチナ占領地特派員)と金平茂紀氏(TBS「報道特集」キャスター)が「ジャーナリズム」をめぐって対談した。
以下はその抜粋・第一弾である。(文責:土井敏邦)

 

(Q・アミラさん、あなたはジャーナリストの重要な仕事は、「権力の監視」だと言っていましたね。そのことについて語ってくれませんか)

撮影大竹秀子

アミラ・ハス氏 ガザ地区で記事を書き始めた頃、イスラエル軍について、またパレスチナ人を支配している(イスラエルの占領)当局について書くことは避けようがありませんでした。これらは権力であり、その役割と存在を避けることはできませんから。

軍の「民政局」という組織に、何本かの記事で触れました。これはパレスチナ人住民の保護を名目として対パレスチナ人政策を実行する組織です。それまでは非常に(当局に)同調的な記者が多く、民政局はパレスチナ人に関する情報を望むとおりの形で記者たちに与え、そうした情報が記事に載ってきました。それで民政局が住民の生活向上のために何かをした、これをした、あれをしたと、功績を認めていました。全体として非常に同調的だったのです。

そこに私が行き、パレスチナ人住民が民政局について思っていることを取材しました。住民は、イスラエル軍の植民地主義的で「差別主義的な部門」であると私に応え、それを私は記事にしました。

すると民政局から、私の報道に対して非常にいらだっているという反応がありました。特に私はまだ新人で、誰も私の名前を聞いたことがありませんでしたから。
私は『ハアレツ』紙の副編集長に「民政局が私にいらいらしているようです」と言うと、彼は「それは、やるべき仕事をした証拠だよ」と答えました。

これはジャーナリズムの基本です。権力側の行動を変えたり止めたりすることができないなら、少なくとも苛立たせようというのです。

権力の監視という仕事をどう実践しているのかと聞かれれば、私はどうやるか考えてさえいないのだと思います。ただ、権力というものは至るところにあり、それを監視することは、ジャーナリストにとって自然なことのはずです。人びとのところに行き、彼らの言うことを聞くのです。権力が人びとに対し何をしているのか、権力がいかにして彼らを辱めたり、不当に扱っていたり、差別しているのかについてです。

パレスチナ人に限った話をしているのではありません。どこでも、人と話をすればこの異なる集団同士の格差を感じます。「持てる集団」と「持たざる集団」、「支配する者」と「支配される者」の間にある隔たりです。

(Q・あなたはジャーナリストとしての仕事は“怒り”だと言っていましたね)

アミラ・ハス氏 声が封じられていると感じる状況下で、どう書き続けるかというのは問題です。書いても(イスラエルの)人びとは読みたがらないと感じているわけですから。それでも書き続ける動機は何か。

私はパレスチナ人の中で暮らしているので、彼らとともに生活するなかで経験することを伝える責任があると感じます。また何より、私は自分が目にしていることに、恒常的な“怒り”を持って生きています。この“怒り”が自分の“エンジン”であり“ガソリン”です。

もちろん占領地でこれだけの不正義を目の当りにすれば、怒りを感じます。一方で、自分が持って生きなければならない、自分自身のさまざまなイスラエルのユダヤ人としての“特権”に対する怒りもあります。ユダヤ人である自分を、特権と結び付けるのは容易なことではありません。私は自分自身を、過去に迫害され、正義のために闘った、不正義に対して抑圧される側にいたユダヤ人という民族の一部と捉えています。

それが突然、(かつての)南アフリカの白人のようになっている。これはまた、おそらく少し時代遅れな私のユダヤ人としての自己認識、つまり抑圧される側に属する者という自己認識に対して、非常に侮辱的なことでもあります。

このように怒りをエネルギーにして行動しているイスラエル人は、私だけでありません。相当な数のイスラエル人活動家が、不正義や自分の特権に対して同じように怒りを感じています。そして彼らは、自分たちの特権を使って、特権体制と闘おうとするのです。

金平茂紀氏 ハアレツの副編集長が、苛立たせる記事がすごくいい仕事だとおっしゃったっていうエピソード聞きましたけども、羨ましいです。つまりアミラさんは孤立していない。日本の組織ジャーナリストたちは今孤立しいています。それから、組織など集団の同調的な圧力にさらされていて、個人の意見を言ったり、あるいは個人の視点から記事を書くということが非常に難しい状況になっています。

一般的にいうジャーナリズムが劣化してる、衰退している現状についてお話しをしたいと思います。最近の日本のマスメディアを取り巻く状況について短くお話しします。

2日前にニューヨークの国連総会の場を借りて、日本の安倍晋三首相とイスラエルのネタニヤフ首相が、トップ会談をしました。そこで何を言ったかという報道で、「北朝鮮のミサイル開発、核開発が世界全体に脅威を与えているということで完全に一致した」とメディアは伝えています。

こういう記事をなんの批判的な視点、客観的な視点もなく、この事実だけを伝えているんです。でもイスラエルは核兵器を持っているじゃないですか。そして日本は、広島と長崎を経験した唯一の被爆国がゆえに、非核三原則というものを国是にしています。世界中に対して、「核兵器は残酷だ」「人道に対する犯罪」だと言い続けてきた国民ではないですか。そんな両首脳が、北朝鮮の核開発について「止めろ」ということに完全に一致するということに、こういう記事を書く人たちは根源的な疑問を持たないのかと思ってしまうんですね。

実はその前の週に、日本の安倍首相はインドを公式訪問しました。インドはNPT(核兵器不拡散条約)に署名していません。そして、核兵器開発をして核保有国になっていますね。安倍首相は今、そのインドに原発を輸出しようとして、率先して売り込みの「プロモーター」の役割をはたしています。

その二つの国のリーダーが共同声明を発表して、同じく「北朝鮮は核開発をすぐにやめるように」ということを世界に訴えている。この2つの出来事に対して、日本のメディアはただ、まったく素晴らしいことだというように報じています。僕は、そのことに個人的にはとても強い違和感を持っています。

日本の報道で今起きていることですが、北朝鮮が日本の上空を横切る形で2度にわたって弾道ミサイルを発射しました。1950年代、アメリカでプロパガンダ映画の中に登場する「ダックアンドカバー」というのがあります。核爆発が起きたら机の下にもぐって隠れて、こういう風にして頭をカバーすればなんとかなるというものです。1982年、アメリカのドキュメンタリー映画「アトミック・カフェ」では、その「ダックアンドカバー」がいかに馬鹿馬鹿しいかと批判していました。しかし2017年の日本のテレビで、学校の生徒たちがやるダックアンドカバーが素晴らしいことだというふうにニュースで伝えて、それに対して何ら批判的なコメントもなく伝えられています。

「Jアラート」というのがあります。ミサイルが数秒間上空を飛んだ時に、総務省という日本のお上が作った共通の画面を、8月29日の午前6時から6時半までの間、30分間すべてのテレビ局が放映しました。日本のテレビの歴史で、自前の画面ではなく、お上の画面が30分間、すべてのテレビ局で流されたというのは、日本のテレビの歴史で初めてのことです。こういうことに対して、これほど無批判になっています。

先ほど「権力をモニターするし、ウォッチする」ことがメディアの役割であり非常に大事だとアミラさんは言われましたが、日本のマスメディアが置かれている現状を言うと、モニターをするということは、まったくなくなってしまっている、その能力を失ってしまっているっていうのが現実だと思います。悲しいことですね。

もう一つだけ付け加えると、日本の官房長官の定例記者会見で、東京新聞のある女性記者が執拗に官房長官に対して質問を繰り返していた時のことです。記者仲間たちが「それまでの慣例を破って、独り占めしていて、しかもしつこすぎる」というようなことを言って、その女性記者を排除しようとするような動きをみせました。官邸の報道室も、その女性記者の質問のケアレスミスを指摘して、「再発防止」の警告文、抗議文を新聞社に送り付けるというようなことも起こりました。

こういう状況を、私はずっと日々目撃しながら今の仕事をしている時に、先ほどアミラさんが言われたハアレツの副編集長のような人が自分の周りに、2人でも3人でもいれば、こんなことにはならなかったんだろうな考えてしまいます。そうなれば組織の中で孤立することはあるかもしれないんですが、一人一人のジャーナリストはあらゆるかたちで会社や組織を超えてつながっていける。

それからもっというと、今日のアミラさんと私がお会いできたように、国境や文化のバックグラウンドの違いを超えてつながることができる、相互理解をすることができると私は思っています。どこの国のどの記者でも同じ志、例えば権力をモニターする、マイノリティーの視線を失わない、あるいは様々なダイバーシティー(多様性)、様々な意見を提示することによって、自由にものをいう気風を保ち続けること。そういうことは、お互いにきっとシェアできる価値観ではないかと私は思っています。(第二部>>

-土井敏邦(どい・としくに)