ベイルートの「一日内戦」の記憶  川上泰徳 中東ジャーナリスト

  

いま、私はレバノンの首都ベイルートに一カ月ほど滞在し、パレスチナ難民キャンプを取材している。

レバノンは内戦が続くシリアの隣国であり、レバノン政治は親シリア勢力と反シリア勢力が対立している。2011年春にシリアで内戦が始まった後、レバノンに飛び火するのは時間の問題と言われてきた。これまでのところ、シリア国境に近い北部や東部は不安定ではあるが、国内への内戦の波及はない。しかし、いまでもレバノンでいつ状況が悪化しても不思議ではない。

親シリア派と反シリア派の交戦の後、親シリア派民兵が抑えたベイルート中心部=2008年5月9日、川上撮影

親シリア派と反シリア派の交戦の後、親シリア派民兵が抑えたベイルート中心部=2008年5月9日、川上撮影

昨年11月に一カ月、ベイルートに滞在した時には、滞在の最終日にベイルート南郊のボルジュ・バラジネのシーア派政治組織ヒズボラ地区で、「イスラム国(IS)」による自爆テロがあり、40人以上が死んだ。テロ現場の近くには、私の取材地の一つだったボルジュ・バラジネのパレスチナ難民キャンプがあり、テレビで一報を知った時は、難民キャンプでテロが起こったのかと思った。結果的には、シリア内戦にアサド政権支援で地上部隊を出しているヒズボラに対するISのテロだった。

レバノンまでISがテロの手を伸ばしているのは深刻なことだが、レバノンの政治勢力にもISの侵入を阻止しようとする協力体制があり、それによって国内政治が混乱するということにはなっていない。ちなみに、レバノンのテロの翌日にパリの同時多発テロが起こり、国際社会の目はパリだけに注がれることになった。

中東に住んだことがない人から見れば、中東はいつでも、どこでも荒れていると思うかもしれない。しかし、戦場でもないかぎり、戦闘が起こったり、テロが起こったりするのは時間的にも場所としても非常に限定的である。ただし、年に何回かテロや戦闘が起きている場所を「危険地」と呼ぶならば、中東の多くの地域は「危険地」と言わざるをえないだろう。

私は中東で長年ジャーナリストとして活動してきたので、戦場やテロの現場も経験してきたが、「戦場ジャーナリスト」ではない。「危険地取材」といっても、戦場に行くとは限らないし、戦闘そのものは私の関心領域ではない。戦場を取材することがあっても、戦争に巻き込まれる市民への取材を通して戦争の非人道性を描くことに関心がある。

いまベイルートは、とりあえず、平穏であるが、中東での「危険地取材」の例として、思い出すのは、2008年5月の「一日内戦」の体験である。私は1948年5月のイスラエル独立と、それに伴うアラブ諸国の対イスラエル参戦による第1次中東戦争から60年という節目で、「パレスチナ問題60年」をテーマにベイルート南郊のシャティーラ・パレスチナ難民キャンプを舞台に取材をしていた。取材を始めて一週間ほどたったころ、レバノンの親シリア派と反シリア派の民兵の武力衝突が起こった。衝突はレバノン中心部ではほぼ24時間で終わったが、いつ紛争が噴き出すか分からない中東の不安定さを象徴するような出来事だった。

簡単にレバノンの政治状況を説明すると、レバノンはモザイク国家と言われるほど、キリスト教とイスラムの多様な宗派が存在し、それぞれ政治に絡んでいる。レバノンでは1975年から1990年まで内戦があり、90年に隣国のシリアがレバノンを支配下におく形で内戦は終結した。それ以来、シリア軍がレバノンに駐留し、政治的にも服従させていた。2005年にスンニ派のハリリ元首相が車爆弾で暗殺され、その背後にシリアがいるという非難が欧米から上がった。レバノン国民からも反シリアデモが起こり、シリア軍はレバノンから撤退することになった。

しかし、シリア軍撤退後も、レバノンではシーア派組織ヒズボラを筆頭とする親シリア派と、スンニ派のハリリ氏の息子サード氏が率いる反シリア勢力の間で対立が続いている。2008年5月の衝突は、ハリリ氏に近い政府が、ヒズボラが独自に設置している電話通信網を閉鎖するよう治安当局に指示したことに対して、ヒズボラが反発したことで、対立が一気に表面化した。

衝突前日の7日にパレスチナ難民キャンプの取材先で「状況がおかしいから気をつけたほうがいい」と言われ、早めに取材を切り上げた。私が泊まっていたホテルは、ベイルートのイスラム地区の繁華街であるハムラ通りにある。シャティーラ難民キャンプとベイルート中心部の間にはヒズボラの支配地域があり、キャンプからホテルに戻る途中、幹線道路でヒズボラの支持者がタイヤを燃やし、道路に障害物を置くなどして異様なムードとなっているのを感じた。

翌8日にはハムラ通りにレバノン軍の装甲車が出て、治安維持にあたった。しかし、まだ人々に緊張感はなく、軍の装甲車の写真をとることもできた。雰囲気が変わったのは、その日の午後にあったヒズボラのナスララ党首が「政府の決定は我々に対する宣戦布告だ」と激しい演説の後だった。与党支持者も武装して通りに出て、対抗する姿勢を見せ、市内で銃撃や砲撃が始まった。

私のホテルからハムラ通りへは歩いて3分ほどと近く、部屋は6階にあった。通りに面してベランダがあり、窓は全面ガラスである。夕方、部屋から銃撃音が聞こえ始めてから、流れ弾がガラスに当たったら大変と、木製のクローゼットをガラスの前に移動させるなど部屋の中の防護の態勢をとった。9日の未明には、すぐ近くで激しい銃撃音が始まり、目が覚めた。カラシニコフ銃の鋭い射撃音だけでなく、機関銃のようなかなり重い銃声や、ロケット弾の炸裂音も聞こえた。まさに戦場である。部屋は窓に面した一部屋しかないので、毛布を持って風呂場に避難し、バスタブの中に身を屈めた。

朝8時ころには戦闘は止んだ。午前中、すぐ近くのスーパーマーケットに行くと、ミネラルウオーターはほとんど売り切れていた。人々は戦闘が続くかもしれないと考え、水や食料の買いだめに走っているためだ。地元のテレビではヒズボラが「我われがベイルート市内の大半を制圧した」と報じている。実際にどうなのか、昼前にホテルから出て、ハムラ通りに向かった。

途中で全面がガラス張りの新しいビルのガラスが無残に割れている。ハムラ通りに入る手前で自動小銃を持った若い民兵が、道の中央に立って検問をしていた。ドラム缶に旗を立てていたが、見慣れない旗で、反シリアか、親シリアか分からない。武装した兵士や民兵を前にすると緊張するが、相手を見ながら、できるだけゆっくり歩いて近づく。

民兵の顔が見える距離に来たら、「アッサラーム・アレイクム(あなたたちに平穏があるように)」とイスラム式のあいさつをする。緊張した場面でも、挨拶をすることは大切なことだ。イスラム式のあいさつには、決まった返事があり、「アッサラーム・アレイクム」と言えば、相手は「ワ・アライクム・サラーム(あなたたちにこそ、平穏を)」と答える。挨拶を交わすことで、相手の警戒心を解くことができる。

「私は日本人のジャーナリストだ。衝突は終わったのか」と聞く。「とっくに終わった。いまは俺たちが秩序維持をしている」という答えが返ってきた。中東では「日本人」を名乗ると例外なく好意的な反応が返ってくる。この時もそうだった。いまはISからは敵視されているが、それはまだ例外的である。

民兵が立てていた旗について、「これは、どこの組織の旗か」と聞くと、「シリア社会主義民族党(SSNP)」と名乗った。ヒズボラと一緒に戦っている親シリア組織である。「写真を撮ってもよいか」というと、銃を構えるポーズをとったので、シャッターを切った。

いつもはにぎやかな人通りのハムラ通りはすべての店がシャッターを閉じていた。格子式のシャッターの店をのぞき込むと、ショーウインドウにぼこぼこと銃弾の穴があき、未明の銃撃戦の激しさを示している。

前日、通りにいたレバノン軍の装甲車の姿は見えず、親シリア派民兵が制圧していた。国軍は民兵同士の交戦に巻き込まれるのを避けて、撤退したのだろう。

繁華街のハムラ通りの商店のショーウインドウに残った銃弾の跡(左)/親シリア派民兵の焼き打ちにあったハリリ氏が所有するムスタクバル・テレビ。壁の肖像は元ハリリ首相

繁華街のハムラ通りの商店のショーウインドウに残った銃弾の跡(左)/親シリア派民兵の焼き打ちにあったハリリ氏が所有するムスタクバル・テレビ。壁の肖像は元ハリリ首相

ハムラ通りから歩いて15分ほど離れたハリリ氏が所有する「ムスタクバル(未来)テレビ」が親シリア派に焼き打ちされたというニュースがあったので、確かめに行こうと考えた。実際にたどり着くことができるかどうかは状況次第だが、現場を歩く場合は、漠然と歩くよりも、とりあえず、目的地を決めて歩く方がよい。通りには人通りはまばらだが、人が出ている。地元の人に話しかけながら進む。

「ムスタクバル・テレビはこっちの方向か」とか「あとどのくらい歩けばいいか」とか「昨夜はここでも激しい戦闘があったのか」などと、話題はなんでもいい。話しかけることで、行先が危険かどうか、周辺の状況についても聞くことができる。「この先は行けない」とか、「検問がある」とか、情報があれば、教えてくれる。

テレビ局につながる道には親シリア系の民兵が集まって検問を設けていた。民兵たちにも、挨拶をし、日本人のジャーナリストだと名乗り、「テレビ局はこの道か」と聞く。「そうだ」と答える。私はアラビア語で話しかけるが、こちらから先に話しかけることで、アラビア語でコミュニケーションがとれることを示す意味もある。もし、通ってはだめならば、「だめだ。帰れ」と言われるだろう。現場の兵士や民兵と話すことで、貴重な情報をえることができることもある。

テレビ局についてみると、故ハリリ氏の大きな写真が飾られたテレビ局は、無残に焼けていた。サード・ハリリ氏の邸宅も近くにあり、地域はハリリ派の牙城のはずだが、親シリア系民兵に支配されていた。衝突はレバノン全土ではなお数日続いたが、1990年のレバノン内戦終結後もレバノン南部でイスラエルと軍事的に対抗してきたヒズボラの圧倒的な強さが明らかになった。「ヒズボラの電話通信網を閉鎖」という政府の決定は凍結され、事態は収集に向かった。

この時の現地取材は、その後のレバノン情勢を見る上での、貴重な判断材料となっている。もし、「1日内戦」がなければ、3年後に起きたシリア内戦は簡単にレバノンに広がっていたかもしれない。シリアの内戦が簡単にレバノンに波及しないのは、レバノン内戦の悲惨な記憶が人々に刻み込まれているためではあるが、内戦終結から20年もたてば、戦争の記憶は薄れ、戦争を知らない世代が出てくる。しかし、その数年前に反シリア派がヒズボラとの現実の力の差を肝に銘じたことが、内戦波及の歯止めとなっているだろうと、私は考える。

この時、ベイルートの戦闘は2日ほどの政治的な緊張を経て、いきなり武力衝突に発展した。私もまったく予想していない展開だったが、自分がその場所にいるのだから、安全を確認しながら、何が起こっているかを取材する。現地の日本大使館とすれば、そんな時に通りに出るのは、無謀だというだろう。しかし、現場で取材して、ニュースとして送るのは、ジャーナリストとしての仕事であり、そのためには安全確保もその重要な一部である。

この時のレバノンの経験から言えることは、様々に政治的な問題や対立構造を抱えている中東では、どこでも、いつでも、戦場やテロが出現してもおかしくないということである。政治的な暴力の種はどこにでもあり、状況は急激に悪化することがある。政治的な状況が急変するということは、そこに伝えなければならないニュースがあるということである。状況が動き始めた時、すべては手探りということになる。用心深い手探りでなければならない。私にとっては「危険地取材」の基本となるのは、現地での人々とのコミュニケーションである。現地で案内人を使う時も、できるだけ地元の人間と接触して情報を得るように求める。

話をすることで、何が起こっているかという情報を得ることもできるが、それ以上に、言葉を交わした時の相手の反応で、緊迫の度合いや、部外者に対する空気を感じることができる。話しを聞いても堅い雰囲気や落ち着かない空気を感じれば、その場所には長居せずに早めに移動しようと考える。中東では状況が数時間で大きく変化することは珍しくない。状況の動きを、一番知っているのは、その土地の人間なのである。

-川上泰徳(かわかみ・やすのり)