【ジャーナリストはなぜ、なにを、どのように伝えるのか】―イスラエル人ジャーナリスト、アミラ・ハス氏との対話― (第二部)

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(Q・金平さんとアミラさんの両方への質問です。日本ではジャーナリズムに「両論併記」すれば良しとし、読者も「中立性」が良いとする傾向が強い、これについてどう思いますか?)

撮影大竹秀子

金平茂紀氏 両論併記と中立は違うことだと思う。特に今、両論併記の傾向が最も強いのは「朝日新聞」だと思う。私が感じるのは、朝日新聞の吉田証言、吉田調書事件以降、「オピニオン」の欄などの記事で、「えっ!」という人が登場する。とっても変なことが起きていると私は思いますね。

「ニュートラル(中立)」とは何なのだということについて厳密に考えることを、新聞を作っている人たちは、ある時点から放棄しているんじゃないかと思います。「両極端の中間点がニュートラルだ」と思ったら大間違いです。「ニュートラル」というのは自分の立ち位置とか取材の状況も全部明かしながら、どういうことを事実として確定させるかの見方の問題であって、右と左とか両極端の中間点を取ることや、両論表記をすることがニュートラルだとは僕は思いません。そこだけは言っておきたい。

(Q・アミラさんその問題をどのように思いますか?)
アミラ・ハス氏 同感です。(英国人ジャーナリストの)ロバート・フィスクは「歴史と民族や国家間の対立はサッカーの試合ではない」と言っています。サッカーの試合のようにはレポートできないというのです。

「両方の意見を書くべきだ」と言われることがありますが、私はそうしています。ですが、同時に自分の立場は隠しません。「両方を書かないといけない」という決まり文句をとても腹立たしく感じた時には、こう言います。「レイプについて記事を書くとき、レイプした側の意見を書くのですか」と。

しかし(イスラエルの占領に関する報道については)心配はありません。イスラエルのメディアでイスラエル側の立場は過剰なほど報道されていますから。私だけではありませんが、私たちがイスラエルの占領について書くとき、他にまったく記事がなくて、それがイスラエル人読者の得る唯一の情報というわけではありません。常にイスラエル政府の立場の情報であふれ、読者はそれに洗脳されているとさえ言えます。

(Q・これも金平さんとアミラさんの両方への質問です。
抑圧される側の立場に立って書くということは、彼らと同じ視点を持つということです。彼らに寄り添うことで、抑圧される側に自分を同一化してしまう可能性があります。ジャーナリストの独立性を保つために気を付けていることはなんですか?抑圧される側から距離を置くことはありますか?)

金平氏 抑圧されている側とか少数者というのは、抑圧している側あるいは多数派とは違い、自分たちの主張を表現する機会が奪われていたり、少なかったりするということがあると思うんです。その声をジャーナリストら伝える人間が拾い上げる、というのがまず基本にあるんだと思いますね。それは、「弱者に身を寄せる」とか「抑圧される側に身を寄せて、その立場と一体化する」ということは違うのではないかと僕は思っています。

特に僕のようにマスメディアの組織ジャーナリズムの世界にいると、いろんな現場に行きます。例えば難民キャンプに行きます。自分は難民キャンプに行っても、自分は難民ではないわけです。これは冷徹な事実です。

ただ、それをどう取り上げるかということを考えたとき、難民キャンプで暮らしている人たちが訴えていることと、日本でこういう豊かなところで暮らしていることと、どっかでつながっているような気が僕はいつもしているんですよ。

例えば、この間訪ねた現場では、(イラク北部の)モスルから逃げてきた人たちが、難民キャンプで生活していました。そこで小さい子どもたちが、工事現場でよく見る一輪車で荷物運びのアルバイトをしていました。1日50円ほどのお金を稼ぐのに必死になっているんです。見ていて、僕はものすごくたくましいなって思ったんです。

僕はその光景を見て心を動かされ、帰ってきてその話を日本の人たちに話すと、やっぱり同じように感じる人たちがいる。「この子たちは強いなあ」って。日本では、そういうことは絶対させないですよね。「児童労働」だと問題になりますから。だいたい、そんなことをすること自体、日本人は想像もできないけど、それを見た時に共感するようなところが僕らの中にはあり、それを伝えるんですね。

つまり「普遍的なもの」とか「普遍的な感情」のようなものがあるのだろうなと思います。それは「抑圧する側」とか「抑圧される側」といったものを超えたようなものに行きつけるんじゃないかなって、取材をしていて感じます。

(Q・アミラさんはどうですか?)

アミラ・ハス氏  私の例でお話しした方が良いと思いますので、一般論には立ち入らないようにします。

私たちジャーナリストの使命の一つは、インタビューする人びとの“人間性”を伝えることです。とりわけ特権のない、または差別されている状況の場合はそうです。そのさまざまな難しい状況にある人びとの人間性を伝え、見せることはジャーナリストの使命であり課題です。しかし、私が占領下のパレスチナ人側をこれだけ長く取材していることをパレスチナ人は知っているので、彼らの行為や慣行を私が批判することの正当性もあります。

私はいわゆる「パレスチナ人の盲目なファン」ではありません。私の原点はとても政治的でイデオロギー的です。私は「イスラエルの占領」には反対しています。ですが、そのためにパレスチナ人の誤り、例えばパレスチナ自治政府(PA)が「イスラエル占領の下請け業者」としての役割を果たしている現実が見えなくなるわけではありません。またハマスが、「武力闘争への民衆の崇拝」を利用して自身の政治力を強化し、ガザ住民を犠牲にしている現実への批判を私が緩めることはありません。

(Q・パレスチナの場合もまた沖縄に関しても加害者側の人間は自分自身の“加害性”にとても鈍感です。例えばアミラさんが多くのイスラエル人は自分の記事を読まないと言われましたが、お二人はどうやって読者や視聴者にその加害性を見出してもらえるように努力していますか?)

金平氏 加害者の側は(その加害を)一番気づきません。よく言われる例ですが、「『足を踏んでいる側』はそれに気づかないが、『踏まれた側』はずっと痛みを感じるから、すぐに気づき、ずっと覚えている」。

加害は、向き合いたくない自分の嫌な部分です。自分を肯定したいという欲望の方が強いんですね。「どうして自分で自分を否定するんだ!」と。僕はとても嫌な言葉ですけども、1980年代ごろから歴史の分野で席巻している言葉に「自虐」という言葉があります。「自虐」というのは「自分を貶める(humiliate)する」ことで、「どうしてそんなことをやるんだ!」っていうのです。

こういう言葉によって、例えば日本が実際に経験してきた“負の歴史の部分”に目をつぶる。それは無かったことにする。「White Wash」というのか、「歴史の嫌なところにまったく目をつぶって、肯定的なものだけを、肯定的な視点からだけで自分を認識していこう」という動きです。それは僕にとって、自分の中の価値観とはとても相容れない、とても嫌な部分です。

例えば、戦争の歴史を振り返るときに、「広島や長崎でこんなひどい目に遭いました」というふうに言いますよね。「東京大空襲ではこんなひどい目に遭いました」とも。「被害者になる」のは、ある意味では受け入れやすい。しかし一方で、「加害をやった」ということにはなかなか目を向けないような歴史認識の持ち方というのはとても嫌ですね。

私は、自分が自虐的な人間だともマゾヒストだとも思いません。ただ、人間の認識の持ち方として、“加害”と“被害”のどちらも経てきたという歴史がある、つまり“加害”と“被害”を同等にきちんと認識しないことは、ある意味で“不正義”だという単純な思いです。

沖縄についてもそうです。日本の同じ都道府県の一つとして、1972年に日本に復帰しているにもかかわらず、多くの日本人は知らんぷりですよね。加害をずっと与え続けるにもかかわらず、そのことを認識していない。知ろうとせず、知らんぷりをし、無視する。それは“不正義”の典型だと僕は思っているんです。

ただ、なかなかそれが共有されません。自分にとって不都合な事は見たくない、自分に跳ね返ってくることについてはなるべく見ないようにする。

最近、小池都知事が関東大震災・朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文を送る方針を急に今年(2017年)から方針を変えました。僕はとてもよくないことだと思いますが、いま日本では、「(方針を変えたことは)何が悪いんだ!」と反論し、自己肯定し、誤った自己優越意識を持つ人たちが大きな声を上げ始めています。

日本がまるでアジアで一番優れているかのような、根拠のない優越感、その優越意識を元にしていろいろな認識を組み立てていくようなあり方。僕は、それは嫌ですね。

だけれども若い世代の中にも、そういう意識が共有されているというのか、「自虐的なのは嫌だよ」という意識が共有され広がっていっているとしたら、それは大人の世代の責任、あるいはジャーナリズムの責任ですね。戦争も「被害の歴史」ばかりやってきました。

ただ、今年はNHKが急に生まれ変わったみたいに731部隊とかインパール作戦とか、沖縄と核の番組をやり、びっくりしました。特に731部隊の番組は加害の歴史をきちんと見つめました。

(Q・イスラエル側はパレスチナについて自分の加害性に非常に鈍感ではないかと感じられます。アミラさんご自身が言われるように、多くのイスラエル人が自分の記事をきちんと読まないということですが、イスラエル人が自分の加害性に非常に鈍感であるという意見についてどう思われますか?)

アミラ・ハス氏  25年ほど(イスラエルの占領について)記事を書いてきて、行き着いた結論は、「イスラエル人が(占領について)鈍感なのは、占領から利益を得ているからだ」ということです。

人類の歴史全体を振り返ってみると、特権階級や支配階級が自らの支配と、それによって他者に強いている苦しみを認識するようになったでしょうか。それは他者が(運動を)組織し、闘っていた時だけです。

特に近代では、その運動にジャーナリズムが協力するのです。運動は単体でもできますが、ジャーナリズムは運動のとても重要な助けになります。イスラエルの占領よりもずっと古い支配の形態、つまりあらゆる社会の男性支配のことを例に挙げましょう。

(イスラエルの)フェミニズム運動は、ジャーナリストたちが男性支配について書くずっと以前から起こっていました。むしろジャーナリストたちがフェミニスト団体や闘争によって触発されたのです。

イスラエルでは、ほんの25年前ぐらいまでは、今ではとても理解できないほど、女性差別的な言葉や表現が使われていました。また女性虐待の現象、例えば家庭内暴力やレイプ、さらにレイプ犯や他の女性虐待者に対する司法の甘さにあまり注意を払っていませんでした。

1989年にイスラエルのあるキブツで、とても有名になった、高校生の集団レイプ事件が起こりました。しかし裁判官は犯人たちに、非常に甘い態度をとりました。当時は、裁判官は神聖で、誰も批判することができませんでした。

それにもかかわらず、フェミニスト団体が裁判官の家の前でデモをしました。これに触発されて、何人かのイスラエル人の女性ジャーナリストが甘い判決に反対する記事を書いたのです。これらの報道がいばら畑の火事のように広がり、蔓延していたレイプや、それに対する司法の判断の甘さ、レイプ犯の捜査における警察の怠慢といった現象に、社会とメディアが目を向けるようになったのです。

これは運動がジャーナリストたちに与える刺激、この運動とジャーナリズムの組み合わせ、と協同によって、男性支配の体制にひびが入り壊れた、その典型的な例です。

綿井建陽氏 「危険地報道を考えるジャーナリストの会」は、2年前に『ジャーナリストはなぜ戦場に行くのか』という本を出しました。これはシリアで後藤健二さんと湯川遥菜さんが殺害された直後に発足し、活動を継続しています。私たちは、実はこの本のサブタイトルを重要視しています。「取材現場からの自己検証」です。これが一番重要だと思っています。

取材において、今やジャーナリストへの襲撃・拘束・誘拐・殺害が相次いでいます。メキシコでは麻薬組織の取材をしている次々に殺害暗殺され、トルコでは報道関係者だけでも150人くらいが政府によって投獄されています。

そうした現状の中で、こういったジャーナリスト、報道関係者に対する攻撃、特に拘束・誘拐・殺人に対してどのようなことをすればいいか、ご自身の体験から意見を聞かせてください。

日本人のジャーナリストである安田純平さんがシリアで拘束されて2年が経ちます。こういったジャーナリストに対する拘束・誘拐、特に身代金の要求とか政治的な要求が出た時にジャーナリストたちやその政府はどういう行動をするべきなのか、あるいはすべきでないのか。例えばアミラさんが誘拐されたら、イスラエル政府はどういう対応をするのか、またはしないのか、というのが私からの質問です。

アミラ・ハス氏 私にイスラエル人であるという障害がなかったとしても、決してそのような戦闘地域に行く勇気はありません。そこに行くジャーナリストたちの勇気を本当にすばらしいと思いますし、特に過去10年間にイラク、そしてシリアで起きている戦争の光景は、私たちが慣れてしまっている事態、私がイスラエル・パレスチナの状況で慣れている事態をはるかに超えているので、この質問に答えるのはとても難しいです。

ジャーナリストを萎縮させたい集団、お金のためにやる集団、自分たちの力に酔っている集団はあると思います。それらの集団に対して発言するメディアの団体もあると思いますが、ほとんどの場合は成功していません。残念ながら私が提案できる魔法のアドバイスはありません。(了)

-土井敏邦(どい・としくに)